海原までの道(誕生)

私は、田舎町の名家といわれる家に産れました。

母は初めての出産で不安を抱える中にもかかわらず、お酒を飲みに出かけた父に連絡も取れないまま病院に行き出産しました。

私が産声を上げてからしばらくすると、飲み歩いていた父がやっと病院に着き、お医者様から子供を抱いてくださいと言われても、酔っていて危ないと思ったのか、恥ずかしかったのか私を抱き上げることもなくそこにいると、父の顔を見ていたお医者さんが

「顔色が悪いよ、ちょっと診察しよう」と言われ、そのまま入院、糖尿病を患っていたのがわかったそうです。体を壊すまでお酒におぼれるなんて、父の心の中はどんな思いがあったのか・・・

産れたときの家族は、父、母、曾祖母でした。1年後に弟が生まれ、5年後にさらに弟が生まれ、6人家族で暮していました。

祖父は戦死でいなかったけど、祖母も一緒にいなくて、曾祖母と一緒に暮らしていたのです。

父の母は、カフェー上がりの人でした。今でいうおしゃれなカフェではなく、昭和初期のカフェーは風俗営業として営業していたようです。戦争に行く兵士の心の安らぎの場所でもあったと聞いてます。

祖母と祖父が結婚し、家風を学んでもらうため曾祖母は祖母に教育をしたようです。

その頃は、嫁という立場はとても弱く、厳しくしつけられたのか長くはいられず、子供を置いて出て行ったそうです。

そのため父は、実母とは暮さず、曾祖母に過保護に育てられたようでした。

曾祖母も不憫に思ってのことなのか、欲しいものがあれば、曾祖母がお金を出し買ってあげてたそうです。

父が整骨院を経営し、もともと資産のある家なので、何不自由なく暮らしていました。大きな旧家、玄関を這入ると3歳の時に買ってもらったピアノがあり、庭は広く大きな池もありました。

私が幼稚園ごろの昭和40年代、父はその当時では珍しい外車を乗り回し、やさしくかっこいい存在でした。

アルバムを広げると庭にビニールプールを作り、小さな私と弟と一緒に入って、優しいまなざしの父がいました。

いつか私が遊びに行って捻挫をしてしまったとき、お酒を飲んで帰ってきた父が優しく抱き上げ父の診療室に連れて行くときに、酔っていたせいか足がふらつき、一緒に倒れてしまいました。

「あっ 怖い」と思った瞬間に、一父にぎゅっとしがみついたのです。

父は優しくほほえみながら「危なかったなー、痛くないか?大丈夫か」と言い私を守る様に転んだため、私は痛みもなく優しい愛に包まれているように温かかったのをうれしく今でも覚えています。

でも、父には別の顔もあって、

夜になるとお酒に酔って帰ってきた父が、母を罵倒し叩く音が聞こえてくることがあるのです。

どうしたらいいのかわからず子供の私はなにもできないまま、布団の中で息を殺して早く朝が来ないかと祈って震えていました。

ある時勇気を奮って、母の前に立ちはだかり小さいながら母を守ろうとしましたが、軽くはじかれ目の前で母をたたく父にやめてやめてと泣くことしかできませんでした。

「パパ、やめて、ママをぶたないで、お願いだから」そんな願いも届かず、日に日にそんな夜が増えていきました。

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